教える教わる

今年の4月からサークルの先輩の紹介で、バイトを始めました。
とある私立の学校で、自習している中学生と高校生の質問に応えるというバイトです。


大学受験を終えてから3年半経ち、中学や高校で学んだ知識が薄れかけてきています。
(特に化学は、情報学科のカリキュラムで学ばないのでかなり危ない。)
とはいっても、長かった「受験勉強」で培ってきた思考回路は脳に刻み込まれているものです。


バイト中に中学生や高校生が数学のテストやプリントで間違った問題を見せてくれた時に、
「どう解いたのか」
とまず聞くんですが、
"学校の授業ではそんな感じで習ってたなあ"
と思う解き方を示してくれます。(答えは間違ってるんですが)
それを見ると、受験勉強の中で「自分にあった解き方」を身につけてしまっている僕は、教科書通りの解き方を内心あまりいいものと思わない。なので、自分の解き方のほうが簡単な発想で解ける、と説明してしまう。でも、結局やってることは同値なんだけれど、問題を解くことにまだ慣れてない生徒は、最初の立式の仕方1つで問題への意識がガラッと変わる。僕の解き方を何か異質に感じてしまって、生徒は余計困った顔をする。
…と、そんな状況が多々あったので、そろそろ教え方を根本的に見直そうと考えています。


カリキュラムに沿った解き方で生徒に合わせるのが学校の側から見ても良心的かもしれない。でも何より、僕自身の解き方へ至る経緯を筋道立てて説明できないのも問題ではある。自分の感覚に落とし込まれているものを説明するのは難しい。


「理解したことを説明する難しさ」は、研究室のセミナー発表でも実感します。今日も進捗発表だったんですが、再来週の25日のクリスマスに、卒業見極めの発表をするそうです。教授や助教の先生方は、重箱の隅をつつくように、細かいミスや論理的飛躍にツッコミを入れてくれます。この言葉遣いでは、伝えたいものと別の意味に捉えられかねないということも実感してきました。


一方で、先生方からアドバイスをいただく時、自分が教わる立場の時に、キチンと理解できていないことがある。自分の勉強不足、というのが原因として大きい。話をしている時は理解していたつもりでも、時間が経つとその言葉を少し違う角度で捉え直してしまう。あれ?大混乱、なのが今の僕です。


そんなこんなで、今まで自分がどうやって物事を理解をしてきたのか、とか、今まで人と理想のコミュニケーションをとれてきたのか、など考えなおしています。
教えるって難しい。選ぶ言葉って難しい。
そう考えると、教わるってすごい貴重。


今までいろいろな考えを教われたのって貴重。